bunnoichi’s diary

高専から大学編入した野郎の激ユル仙台日記(大フィクション)です

24.1本目の日記 〜卒業旅行記〜

人生最長旅行

先週随分前、旅行に行って来た。最初は卒業旅行でみんなで同じ所行こうぜ的な話だったが、人数も肥大化したり立案者の1人が行けなくなったりと、だんだん縛り少なめの自由な感じに。ということで、旅の前半を友達と過ごす卒業旅行、後半をワガママと無計画性が誰にも迷惑をかけないで人気の一人旅として行って来た。その冒険記をここに記す。

Day0 〜移動日〜

この日は広島への移動日。もちろん、バ畜な私は朝からしっかり働いてから旅に出る。バイトから帰って支度をするが、意外と時間が余ってる。のんびりしながら駅へ向かい、湘南新宿ラインで新宿へ。どうやら同じ編成にT、B、NKも乗っているらしい。ただ車両を移るのも面倒なので、新宿に着くまで一人で揺られる。夕方に上り電車に乗ったのは初めてで新鮮だった。

新宿でよく行く激早&替え玉2杯無料のラーメン屋”博多風龍”に入ろうとするも、蔓延防止のおかげで入れず(1分早ければ食えてたっぽい)。しょうがなしで、隣の日高屋に入り、ラーメンを食う。クッソ狭ぇ。

東新宿日高屋を出て、甲州街道方面へ。途中、写真をバシャバシャ撮る。

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夜の甲州街道東新宿で輝く野呂佳代

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甲州街道を跨ぐ例の歩道橋から見たバスタ之図

ということで、バスタ新宿に入る。時間が結構ギリギリだったので、ロビーでの滞在時間は確か2分くらい。マジギリ。キャリーを預け、いざ乗車。

バスの前後方向は思ったよりもスペースがある。足を伸ばし切ることはできないが、割とだらんとできそう。初めての深夜バス、初めての12時間連続乗車という不安要素いっぱいの移動だったが、なんとかリラックスできそうでホッとした。ただ、横方向には結構キツく、その上カーテンが締め切られており閉塞感はもの凄かった。幸い、窓側のカーテンの区切りの部分にいたのでチラチラ外の様子は見ながら移動できたが、閉所怖い人はちょっと苦しいかも...。

そんなこんな思ってると、早速発車。初台までは約20分程度、そこを過ぎればもうノンストップ。タイムフリーでオードリーのオールナイトニッポンを聴いたり、細野さんのデイジーホリデーを聴いたり、D'Angeloを聴いたりして過ごすと、あっちゅう間に小田原。その後も「もうココなんだ」みたいな感情は続く。夜中、高速沿いにそびえる灯りも車も一切ない深い森林を見ながらエンドレストーキングを聴き、怖くなる。

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駿河湾沼津SA、岡崎SA、宝塚北SA

さすがに何時間も同じ姿勢でいるのは辛いので、一応全ての休憩でバスから降りて散策はしてた。駿河湾沼津では「夜景バカキレイ!」と思い、岡崎SAでは「東海オンエアがいる岡崎や」と思い、宝塚北では「兵庫クソ寒いな」と思ってた。ただキツいのはここからだった。

朝7時前、吉備SAに着く直前で腹に激痛が走る。「プギャァ!なんやこの痛み!」。下痢気味の腹痛でもなければ、ガスが溜まってるような鈍い痛みでもない。破裂しそうな鋭い痛み。吉備に着き、たまらず降りる。「少し歩けばどうにかなるか...」という願いとは裏腹に、うずくまるほどの激痛が走る。たまたまフードコートで朝飯を食おうとしていたTから太田胃酸をもらい、便意はなかったものの無理矢理捻り出す。時間ギリギリまで便所に篭ったおかげで、なんとか歩けるまでには回復した。不安だったその後も、だんだんと回復していき、9時に広島に着く頃にはいつもの調子に戻れた。ありがとうT、い〜い薬です。

そんなこんなで広島に着き、APAに荷物を置いていざ観光。今日は錦帯橋広島市内を少し回りたい。ウキウキ気分。

Day1 〜岩国・錦帯橋

「よっしゃ!行ったんで!」気合満々でICOCAを買い、改札を華麗に抜ける。

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岩国どれ乗ったらええねん

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エラが張ってる電車(227系っていうらしい)
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瀬戸内の車窓から

広島駅から山陽線に揺られること約1時間。群馬を出て苦節18時間、ようやく岩国駅に着いた。

1stスポット 錦帯橋

ということで山口は岩国駅で降り、さらにまたバスに揺られること約20分、ようやく辿り着いた錦帯橋。初めて見る錦帯橋。風が群馬並みにビュービュー吹いてて激寒だったが、それを差し引いても美しい景観。実際に見ると、思ってたよりかなり長そう。

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青い空と錦帯橋

錦帯橋が跨いでいるのは、山口西部を蛇行するように流れる錦川。ところで、この橋はいつからあるのだろうか。その答えを求め、我々はサバンナへ飛んだ。

History Check --- 錦帯橋のレキシ

その昔、関ヶ原の戦いでなんやかんやあって岩国一帯を治めることになった吉川広家は、城下町の造営に着手したらしい。

ただそこで問題となったのが、中下級武士の住むエリアから藩政の中心部に行くにはこの川をどう越すかである。防衛政策を重視してた領主からしたら、これはぐぬぬ案件である。記録では何度か橋は架けられてたらしいが、その度に流されていた

とうとうブチギレた吉川広純(広嘉)は長崎眼鏡橋などのアーチ橋や中国杭州の”西湖志”などをガチで研究し始め、延宝2年(1674年)、ついに完成したのがこの錦帯橋である。らしい。

延宝2年の再建以来、流失することなくそびえてきた錦帯橋だったが、昭和25年(1950年)に襲来したキジア台風によって、276年ぶりに橋を失う。市議会は国や県に助成を願い出たが「コンクリにせいや」などの意見に根強く反発し、27年、ようやく再建が完成し、現在に至る。

kintaikyo.iwakuni-city.net

「はぇー、おもしろいでさぁねぇ。ええやんええやん。」

この日記では気合いを入れて、その場所の歴史や経緯も載せようと思う。もちろん知らなくても「キレイ!!」に変わりはないんだけど、こういうのを知るとロマンみ感じる。今回の旅で訪れたのはほとんどが中近代の名所であったが、これらの史跡を訪れる中で、日本語の文献や説明、侘び寂びなどの独特な風味を、翻訳なしでそのまま読めるのは日本人の特権であると感じた

橋を渡る前に、川っぺりの露店で豚串を食べる。頼んでから目の前で焼いてくれるアツアツっぷり。焼いてる間に塩コショウをまいてくれたが、家でやったら親に怒られるレベルでジャシャジャシャ塩ふってくれる。MTMTのおかげで塩分量に目に行くが、旅ということで黙って食べる。

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川原で食う豚串クソウマイ、親指クソブス
2ndスポット 岩国城

ロープウェイで山を登って岩国城へ。多分中1ぶりにロープウェイに乗るが、ワクワク。だんだん岩国城下が見え始めてくる。

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チョー間近から岩国城

山を登ったが、やはり山城が建つような場所だけあって、開けた場所はほぼない。故に、障害物なしで城を撮ろうとすると、この距離感の場所が一番ベストになってしまった。反対側(瀬戸内側)にもあったが、そこだと仰角が70度とか80度になってキツかった。

History Check --- 岩国城のレキシ

慶長6年(1601年)に入国した吉川広家は、山麓御土居から作り始めた。御土居とは、領主が普段住む屋敷のことである。その後に山上の城を作り始めたが、石運び辛かったり、現場監督(普請奉行)が江戸城伏見城の建設に駆り出されたり、クライアント(吉川さん)も岩国をちょいちょい離れたりと、色々あったらしい。なんやかんやあったが、慶長13年、ついにお城が完成じゃ。

ただ元和元年(1615年)、幕府より一国一城令が出される。吉川広家関ヶ原以前、西軍豊臣方だった毛利輝元に支えていたが「あれこれ徳川勝つんじゃね?」と勘付き、徳川に「ウチら大人しくしとくから勝ってもウチの土地獲らんでね?」と密約を交わして領地を得ている。

吉川広家「スッ、周防国にはウチ以外城ないからイイんじゃなっ、ないスカ...」
毛利秀元「ンダコラ、うちも長府の城壊すんやからお前も壊せよ」
吉川広家「あっ、はい...」

こうして吉川広家は、せっかく建てた念願のマイキャッスルを破壊することになってしまったのでした。(現存の岩国城は昭和37年に史料をもとに再建された城。)

こういうことがあった。らしい。(出典は岩国城公式パンフレット。)

城の中には日本刀が沢山。美しいが、あまりわからない...。そして気になる展望台へ。そこからは岩国の城下町が一望できた。地を縫うように流れる錦川、その先には瀬戸内の海と無数の島々。「はぇー、キレー」と、心が洗われるような美しさ。気のせいか、空気もウマい。肉眼で見て、ファンダー越しに見て、肉眼で見て、ファインダー越しで見て、を繰り返す。

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令和4年の岩国城

城を降り、お食事屋”長州屋”で塩唐揚げをいただく。ウマイ。一緒に行ったT、NK、BBC、S太郎は瓦そばを食ってた。ただ、店内の至る所に社長の記念写真が無数にあり、その社長の顔が目がパッチリした辛坊治郎みたいだったのを強烈に覚えてる。

本来の予定では、岩国には午前か昼下がりまでしかいない予定だったが、いつの間にやら時刻は16時くらい。ということで再び揺られること1時間、広島に着きアパホテルチェックイン。

夜の広島市観光散歩

ホテルに着いたのは確か17時半。ここで、前日の極端な睡眠時間と夜行バスの中でドカンとまとまった睡眠が取れなかったのもあり、部屋に着くなり寝入ってしまう。

気づいたら19時半。とりあえず24時間以上入れていない風呂に入り「いざ夜飯食いに行くぞ!」と意気込んで広島駅方面へ繰り出したはいいものの、この日の広島県はギリギリまん延防止等重点措置の期間内だったため、どこも入れず。翌日聞いたら、夜7時の段階でも結構入れない店あったらしいので、ワシは入店拒否どころか、文字通り門前払い状態だった。

ということで、諦めて夜の広島散策に切り替え、21時前から徘徊開始。

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夜に撮影した「朝(圓鍔勝三)」広島駅北口にて

広島駅を出て駅前通りを南下し、途中曲がって広電本線に沿って歩く。途中、静まり返ったビル街の中で不釣り合いなほど煌々とした繁華街に魅了され、カメラを構える。いま見返すと通りが明るいだけで店はそんなにやってなさげ。

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流川銀座商店街(21時45分ごろ)

しばし撮影し、西へ歩みを進める。広島城から続く道路との交差点である紙屋町交差点には横断歩道がなく、歩行者は地下街を通って向かい側に渡る。この地下にはレストラン街もあったが、まん防のおかげでほぼシャッター街と化していた。

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蒼氓のMVに使えそう(22時ごろ)

この地下道を突き当たり手前で曲がり、地上へと出る。階段を登ってから1分もしない間に、平和の象徴的建物である原爆ドームが目に入った。

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広島城側から見る原爆ドーム

初めて見る原爆ドーム。壁の隙間から、建物内部には今もなお、崩れた瓦礫が残されているのが見える。今まで教科書や液晶越しには何度も見ていたが、肉眼で初めて見るその生々しい戦争の痕に、思わず息を呑む。

しばらくの間色々なことを想い、再び歩を進める。辿り着いたのは、平和記念公園。その手前にある原爆による死没者慰霊碑に向かい、手を合わせ、祈る。慰霊碑に掲げられた短い文言を一人読み、感情が込み上げる。

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中心で燃え盛る平和の灯

静寂に包まれた夜の平和公園、周囲に友達はおろか、自分以外ほとんど人はいない。あるのは、慰霊碑と平和の灯、そして77年前への想いである。皮肉にも、今なお東欧では核保有国が許容できない侵略戦争を仕掛けていることが頭をよぎる。原爆の象徴的遺跡を前に、しばらく黙りこみ動けず、考え込んだ。

手がかじかむほどの冷え込みだったが、1時間弱この地で過ごしてホテルに戻る。途中、持ち帰りだけやってたなか卯で期間限定の海鮮丼を買って帰る。「旅行感全然ない...」なんてことは考えず持ち帰る。24時過ぎ、高層階に泊まっていたTの部屋に一瞬侵入し、明日の予定を少し話す。こうして、1日目の旅行が終了した。

Day2 〜広島市内と宮島へ〜

2日目の朝は、今回広島に来ている5E連中みんなで記念写真の撮影をしようという話に。ということで朝食を済ませ、広島城方面へ向けて歩く。寒空の下、耳にイヤホンを突っ込み爽快に歩く。1曲目は達郎さんの”MY MORNING PRAYER”。3割増しで素晴らしい朝に感じる

最初の集合場所は城の隣の広島市中央公園。行ってみたは良いものの、どうやら全面工事してそう。しかも誰もおらん...。「もしやハメられたか?」という思いを抱きながら、隣の広島城三の丸跡へ。ようやく巡り会えた我が朋友よ...。10分もしないうちに広島にいる5E連中が全員集合した。その人数、クラスの約半数15名。多い...。改めて全員と顔を合わせると、これだけの人間がプライベートでいっぺんに行動するのは無理だし、コロナ禍で訪問先にも少し迷惑な気がするなと思う。

ということで記念写真撮影。まともな写真とS山を指差している2枚を収め、解散。

3rdスポット 広島縣護國神社

解散とは言ったものの、全員そのまま広島城へ入って行ったので、見た目としては完全に団体ツアー。みんなは割とスタスタ城の方へ歩って行ったが、自分や在草津伊大使のHなんかはしばらく写真を撮りながらぶらぶら。

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広島縣護國神社、鳥居右に鎮座する神馬

そういえば、この広島県護国神社がこの旅で訪れた初めての神社だった。パンデミックが始まってから、お清めの仕方が神社によって色々異なっていることをふと思う。

パンデミックが流行り出して2ヶ月ごろだった令和2年5月1日(天皇陛下御即位1周年の日)、この時行った地元の神社はたしか手水舎自体閉鎖されたた気がする。去年の年末久々に訪れた明治神宮は手水舎開いてはいたが、柄杓は無くなってた気がする。護国神社も柄杓は無かったが、手水舎は開いてた八百万の神々にも御許しいただけるだろうと考え、口は漱がずに御手のみ清める。そんなことを思いながら、ご英霊に手を合わせる。終え、ふと本殿横にあるお札売り場を見ると、アルコール消毒に「お清め」と書いてあった。「時代でゃ...」と感じながら、護国神社を後にし、広島城へ。

4thスポット 広島城

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広島城
History Check --- 広島城のレキシ

なんやかんやあって豊臣方についていて、広島が広島と呼ばれる前から広島一帯を治めていた毛利輝元は、天正16年(1588年)に上洛し、秀吉と初めましてする。

その際に、大阪の煌びやかさや大阪城を訪れ「ウチの城(郡山城)めっちゃオワ城でぇ」と悟り、新しい城を作ろうとする。翌17年、太田川周辺の三角州に築城を開始し、当時「五箇」と呼ばれていたこの地が「広島」と言われ始めたのもこの頃とされている。

地盤激ゆるだったため工事は難航したが、なんとか本丸だけは完成させて19年、輝元は入城する。するも、慶長5年、関ヶ原の戦いで西軍大将だった輝元は、家康により長門へ強制お引っ越しに処されてしまう。

この後に広島城に入ったのは、元秀吉派だった東軍の福島正則。せっせと城下町を整備するも、途中出された武家諸法度の「大名住居の普請は申告制(リフォームするなら言えよ)」を無視し、事後報告で改修しようとしたのがバレる。ブチギレた徳川秀忠は「条件付きで許してやっからな?」としたものの、さすがノリノリ正則、条件守らずついに改易(更迭)、転封(津軽海峡島流)となった。

元和5年(1619年)、入ったのは和歌山城主だった浅野長晟。浅野氏時代は広島で争いはなく、元治元年(1864年)の長州戦争まで平和な時代が続いた。

明治4年(1871年)、廃藩置県によって広島県庁と軍部が設置され、日清戦争時には明治天皇とともに大本営が城に入り、臨時帝国議会が召集される。

昭和20年、原爆投下により石垣や堀以外を失った広島城だったが、26年の広島国体の展覧会で模擬天守が作られ、再建への契機となる。そして昭和33年、広島城郷土館として現在に至る

www.rijo-castle.jp

実は広島城昨日(6日)まで蔓延防止で全面休館してたらしく、1月以来の久々開館初日に入ることができた。なんたる奇跡的日程。

岩国城より展示が豊富だったものの、日本史のわからない愚鈍にはチンプンカンプン...。この度を通して何度も思った「日本史やっときゃよかったー」的瞬間だった。

展望台からは広島城下が一望!ではなかった...。広島市中心部は前橋なんかよりはるかに栄えているため、ビル群やマンション群が立ち並んでいた。おかげで、景観はビミョー最高。RCC見えるし。

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爆笑問題カーボーイでおなじみのRCCがすぐそこに!
5thスポット 原爆ドーム&広島平和記念資料館

広島城を後にし、しばし歩いて原爆ドームへ。昨晩も訪れたが、やはり空間が違う気がする。あまり友達とは来たくない、一人で居たい空間。

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南東方向から見た原爆ドーム
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原爆ドーム近くで出会った生き物たち

平和記念公園を通り、平和記念資料館へ。小6の時には長崎、中2の時には学校の班別旅行で第五福竜丸を見た。恐らくそれぶりの気持ち。最後の第五福竜丸からはもう7年近く経っている。この7年、自分の精神性も世情も大きく変わった。

資料館へ入る。色々な思いを抱きつつ見て回る。周りの来館者も声を出す者はほぼおらず、皆黙ってその歴史を呑み込む。この感じ、幼心に訪れた長崎以来だ。

資料館の中にはあの日広島にいた、子供を含む多くの人々の記録が残されていた。その中でもある少女の話が目に入る。その少女は、前日の夜に一人見上げた子供の像のモデルとなった少女だった。この少女は被爆後回復し通学するも、後遺症で亡くなっている。

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原爆の子の像(7日22時半ごろ)

資料館は主に、8月6日のヒロシマ被爆者の様子を紹介する本館と、核兵器の歴史と政治の流れを紹介する東館の2部構成になっていた。ちょうど下の画像の緑色の丸印のところで、台に設置された2冊のノートがあり、読んでみた。対話ノートと呼ばれるその中には、さまざまな来館者が声を残していた。

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平和記念資料館の順路(資料館HPより)

この対話ノートには、本館の展示を見終わった人々の声がびっしりと記されていた。さまざまな人々の想いを読む。広島城と同じく、資料館も7日まで閉鎖していたらしく、日付が1月から飛んでいた。自分は出口近くにある方の対話ノートに書いて、資料館を出る。

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広電原爆ドーム

資料館を出てTとともに広電の駅へ向かうと途中、修学旅行の軍団に行き会う。そういえば、原爆ドームから資料館へ向かうときも、私服だったけど学校行事で来てる感じの学生集団に出会した。自分も制服で女子と卒業旅行したかったなと思ったけど「この人生ではもう叶えられない」とすぐに悟って悲しくなった

6thスポット 宮島

広電に約1時間乗って宮島へ向かう。市街地の路面をひたすら揺られるが、途中のターミナル感あふれる西広島駅を境に急に普通の電車みたいな車窓になった。Wikipediaをで宮島線のページを見ると「広島電鉄の路線で唯一鉄道事業法が適用される」と書いてある。ほぇー。

宮島口駅に着く。驚くことに、駅からフェリー乗り場までチョ〜近い。その距離約100m。しかも、同じフェリー口にJRと松大汽船の2社が入っていることにも驚く。行き先も航路も全く同じ。どちらも約15分おきくらいに1本出ていて、時間がぴったりだったJRの方にいざ乗船。

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丸んせみ

2年の頃に中学の友達と行った初島ぶりの船。

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どんてん瀬戸内海、マルンセミの出した波動、隠れてる大鳥居

船にも揺られること約10分、ようやく宮島に到着。宮島についても、ご多分にもれず何の前情報も得ずに行った私。着くやいなや「こんなに鹿おんのか!」とたまげる。

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転生したらワシもまぜて

初めての宮島、というか久々の異郷にウッキウキで闊歩する。Tと共に海沿いを島の中心部(神社方面)へ歩いてゆくと、早速いい感じの商店街を見つけ、体が持っていかれる。

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群馬には無い表参道商店街
道中、あなご飯の甘じょっぱそうなメチャクチャいい匂いが鼻を猛攻してくる。この時点で14時を過ぎ。雰囲気も相まって耐えられぬ。Tと話し合い「もう少し進んで様子を見てから飯屋決めよう」ということになり、しばし歩く。無論、匂いの中。歩き進めると...

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商店街終わりの石鳥居

厳島神社の石鳥居が目の前に。あとで神社のHPを見たら、石鳥居の神額は三条実美の揮毫らしい。一礼して表参道へ。

と、ここで、またしても衝撃的事実に気づく。なんと、かの有名な厳島神社の大鳥居が工事中だったのである。これはしてやられた(?)という感じだ。

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もう逆にレアだと思うことにした
昼飯、お食事処 とりい

「とりあえずまずは昼飯食おう」となり、参拝はまだせずに先へ進み、いい感じの店を見つけTと入る。

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超絶ウマいメシ、略して絶メシ

訪れたのは、お食事処とりい。頼んだのは広島ラーメン&ミニあなご丼セット。「卒業旅行でせっかくだし...」ということで、学生の昼飯にしては少し贅沢してぇ...1700イェーン...(トーカ堂の北社長風に)。あなごの旨さもさることながら、米に絡んでるタレが甘じょっぱくてまた旨い。

お店のおばちゃんもスゴい愛想がよかった。「写真はよく撮れました?」とか、お冷くれる時もお勘定の時も、多分記憶にある中じゃ一番丁寧にしてくれた。腹も心も満足に店を出る。

www.toriiya.co.jp

店を出てTと展望台まで登山しようかと登り始める...も、調べたらどうやら本格的な山道を4,5キロ歩かないとダメそう。展望台は16時までで、この時点で15時20分。男二人諦め、小ぶりな山の展望台へ。

7thスポット 南大西見晴休憩所

食事処から展望台までは約600mしかない。けど食った直後てのと景観を楽しみたいというのでのんびり歩く。

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イイ感じ小路

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展望台方面へ登る石段

ということで到着、南大西見晴休憩所。着いてびっくり、人は自分とT以外誰もいなかった。まさに穴場。

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穴場展望台

この画像じゃ見えないけど、右側も厳島神社の本殿が見えるくらいに開けてた。一眼使ってこの場所から対岸にいるNKとNSをしばらく監視してた記憶がある。

15分程度ここのあずま屋で休憩し「いざ厳島神社へ!」と思ったものの、Tと自分に介在する冒険心で再び神社とは逆方向の暗い道へ。

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TRICK的な場所

進んでいくとどんどんTRICKで妖術使いが出てきそうな場所になってくる。上の画像なんか、まさに100%当たる吉子さまの回で清水が死んだ場所に似てる。煽りとしてYouTubeTRICKのBGMを流すと、モロそれだったので本当に少し怖くなった。


www.youtube.com

しばらく行くと「血佛」という水の湧いてない不気味な泉に行き着く。詳細は割愛。ふと血佛から後ろを見ると、鹿が馬鹿にいる。街中の10倍は居た。時刻はもう16時だったので、おそらく彼らの巣への帰宅路だったのだろう。人馴れしているので、なんとか襲われずに済んだ。

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鹿の大群と、山の谷のナウなシカ

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シカと森

シカと森の写真をあげた時にStoryに貼った曲。

神社の拝観終了が迫っているので、冒険はここまでにして、Tとともに海岸線を急ぐ。

8thスポット 厳島神社
History Check --- 厳島神社のレキシ

厳島神社の御祭神は、天照大御神素戔嗚尊の二柱が高天原で誓約を行った際に成った神である市杵島姫命田心姫命湍津姫命の三柱である。

宮島のこの地に建立されたのは、推古天皇即位の年(593年)であると伝えられ、平成8年(1996年)に世界文化遺産に登録されている。らしい。

www.itsukushimajinja.jp

因幡の白兎のあたりまで古事記を読んでいた自分は、なんとなくこの誓約の話は覚えてたので嬉ぴかった。

早速参拝。の前に、社務所の方に撮影OKかを訊く。頂いた答えとしては「神事や宮司などの人物が写ってなければイイですよ」とのことだったので、良識の範囲内で写真を撮らせてもらうことに。

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根御お清め時代...

「一眼でも撮っておくか」とNikonに手をかけると、反応がない。

バッテリー切れである...。「昨晩の段階でゲージ4/5あったから充電しなかったのに...しとけば良かった...。」という後悔虚しく「私は参拝しにきたのだ!」と思い直し、順路を巡る。

まず入り口から入ってすぐのところに、客神社と呼ばれる小さな社殿があり、そこでまず参拝。回廊を周り、本社にて参拝。本殿ではちょうど御祈祷をされていたので、タイミングに困った。なんとかお祈りをし、本社を後にする。

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厳島神社本社

とここで、獺祭の工場見学に行っていたBBC、A、K、胡蝶蘭と再会。胡蝶蘭とTとともに、人生初の御朱印帳を戴き、御朱印を認めていただく。前々から御朱印は始めてみようと思っていたので、良い機会だった。

2日後に行った清水寺御朱印をいただいた際に「これは春のだね」と教えていただいた。言われてみれば、やけに桜色の御朱印帳だったので、他の季節や他の神社のも見てみたくなった。

時を戻して、ちょうど潮の引いたタイミングだったので、大鳥居まで歩いてみることにする

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反り橋わたろ♪

反り橋の反りっぷりに圧倒されつつ、神社を出て海の中へ。

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工事中でなければ...

まだまだ海水が残っていたが、それでも行こうと思えば本当に鳥居まで近づけるほどだった。足場さえなければ...という想いを抱きながら、厳島神社を後にする。

よし、広島市街へ帰ろう

あとは広島市へ帰ってお好み焼きを喰らうだけだ。表参道商店街の土産屋でバ先用にもみじ饅頭を買ってフェリー乗り場へ。「さらば宮島」と思っていた矢先、Tが興奮している。

厳島合戦跡?!」かなり興奮している。行くかどうか尋ねると「あーもうこりゃだめだ、俺ゃ行くぞぉ↗︎」と。「こりゃ聞かんな」ということで、学科棟より急な階段を急いで登ってゆく。

ただ登れど登れどいっこうに合戦跡なんて文字は見えてこない。「どぉなってんだこれぁ」山中でTと叫んでいると、ようやく看板。そこには「要害山山頂」の文字。

「バカな...そんなはず...この短い間で俺らは山を登らされたのか...しかも害を要する山を...」Tと諦めムードで山を下る。

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"日常"みたいな風景

途中、鹿に道を塞がれながらなんとかフェリー乗り場へ、すると...「あっこれ?!」現れたのは、フェリー乗り場前の広場にあった立て看板、そこには「合戦跡」の文字。もうなんかどうでも良くなってしまった。

そして帰りは胡蝶蘭の様子もおかしい。どうやら昼に食い過ぎたようで、様子を見ながらのんびり広島市内へ帰ってきた。

9thスポット あとむ

ホテルに戻って割とすぐ、T、BBC、A、Kと合流してお好み焼き屋へ。少し距離があったが、原爆ドームよりは手前だしということで徒歩で。約30分弱ぷらぷら歩くと、まん防が明けた賑やかな歓楽街が待っていた。

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お好み村

Tが行きたがっていた店にトコトコ付いていく。雑居ビルのEVに乗ってそこを降りると、広がっていたのは狭く並んだお好み焼き屋数軒。中でも立ち入ったのはあとむという店。

www.okonomimura.jp

店内には壁一面に芸能人のサインが貼られており、PerfumeファンのTが来たかった理由らしい。サインの画像を貼るような野暮なことはしないが、中でも乃木坂のデビュー日に乃木坂のメンバーが食べに来たらしく「デビュー日のサインて割とスゴくない?!」状態に。

サインは置いといて...さっそくお好み焼きをいただく。

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肉玉そばとウインナー

バチくそウマい...。旅の雰囲気もあるせいか、今まで自分で焼いたのしか食ってないせいか、人生で1番ウマいお好み焼きだったと思う。ウインナーも骨身に染みた。

しかもこのお店、目の前で焼いてくれる。おかげで他のお客さんのやつ焼いてる時から、見た目、匂い、音のトリプルコンボで焦らしを食らっていたので、目の前に来た時の「ついに!!!!」感はハンパなかった。

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オトモダチは牡蠣のお好み焼

他の人は酒で酔っぱらい、自分は雰囲気で酔っぱらい、なんやかんや2時間近くいた。

こうして、旅の2日目が終了していった。ちなみに卒業旅行としてはここでおさらばである。

Day3 〜倉敷と夜の京都〜 を書こうとしたが...

この続きも書こうとしたが、あまりに長すぎるため割愛太郎。続きは右下の「貢献する」ボタンをクリック。

その他の日記

  • 土曜、これまでの生活が祟り、寝付けず。6時半就寝、8時起床。バイト(9-14)。88Mさん、85Sさん、ドラッグのお二人、資材のNに辞める報告。後輩のS、Hくん、W少年と雑談し、15時前、出る。17時過ぎ、駅着。19時過ぎ、新宿駅新宿駅1番線にて、T、BBC、NKと落ち合う。19時半、ダイソー京王モール店。50分、日高屋新宿東口店。ヒゲガールの広告トラックを見て少し興奮する。20時半、JR東日本本社ビル前。21時、バスタ新宿。15分、搭乗。23時過ぎ、駿河湾沼津SA。
  • 日曜、1時半、岡崎SA。4時半前、宝塚北SA。7時過ぎ、吉備SA。9時過ぎ、広島バスターミナル着。後、APAへ荷物を預ける。10時、広島駅。11時過ぎ、岩国駅、のち錦帯橋。12時半過ぎ、岩国城。14時前、S太郎合流し、長州屋で塩唐揚げ定食。17時過ぎ、チェックイン。部屋でまどろみ、寝入る。19時半、起きる。20時過ぎ、飯を食おうと駅方面へ出るも、蔓延防止のおかげで何も食えず。そのまま夜間徘徊。流川銀座商店街などの写真を撮り、22時半、原爆ドーム平和記念公園なか卯で持ち帰りを頼み、23時半、帰る。Tの部屋に一度行き、戻る。
  • 月曜、8時、朝食会場へ。8時半、アパを出、9時、広島城三の丸跡で記念撮影。9時半、廣島護國神社参拝。10時前、広島城入城。10時半、広島城を出、11時前、原爆ドーム広島平和記念資料館。13時前、広電原爆ドーム前駅を立ち、14時、広電宮島口駅。そのまま船に乗り、14時半前、宮島。15時、とりいにて食事。Tと山を登ろうとするも、断念し、散策。17時前、厳島神社参拝。18時前、要害山登頂。K、B、A、胡蝶蘭と合流し、18時半過ぎ、本土へ戻り、宮島口駅。19時半、広島市内に戻る。20時過ぎ、T、K、B、Aとともに新天地お好み村にあるあとむへ。22時、出る。途中、ファミマ、セブンにより、戻る。
  • 火曜、8時起床。朝食を食べ、9時過ぎ、出る。BBC合流。広島駅内で土産を買い、9時半ごろ、ヤマト運輸広島光町センター。10時前、広島駅新幹線口でiρ軍団に会い挨拶。改札前でしまなみ海道組に会い挨拶。22分、のぞみ乗車。58分、岡山駅着。途中下車し、11時半、倉敷駅。50分過ぎより、倉敷美観地区を散策。13時前、おおにしで昼飯。大原美術館、阿智神社を巡り、14時前、倉敷駅をたち、14時半、岡山駅。桃太郎像撮影、駅構内で土産を買い、15時23分、のぞみ乗車。16時22分、京都駅着。ホテルチェックイン。19時前、ホテルを出、本家第一旭へ。寒空を20分ほど待ち、夕食。20時ちょうど、店を出、京都駅を経由し東寺まで散策。40分過ぎ、夜の東寺。30分ほど撮影し、戻る。深夜、地上波で初めて相席食堂を見る。
  • 水曜、8時起床。朝食を食べ、9時前、出る。バスターミナルで1日券を買い、10時前、金閣鹿苑寺。11時前、鹿苑寺を出、バスを乗り継ぎ、11時半過ぎ、嵐山。竹林の小径を歩き、野宮神社参拝。12時半過ぎ、渡月橋。14時過ぎ、嵯峨嵐山駅をたち、二条駅へ。14時半、二条城入城。16時過ぎ、二条城を出、16時半、京都御苑京都御所建礼門を拝し、17時半、京都駅伊勢丹にある拉麺小路へ。ますたにで食事をし、18時、京都駅展望台へ。18時半前、駅を出、18時半過ぎ、五条坂バス停。19時前、夜の清水寺。1時間も撮影し、20時、拝観。夜の清水の舞台に立つ。21時過ぎ、清水寺を離れ、206番系統で京都駅へ。22時前、ホテルに戻る。
  • 木曜、8時起床。朝食を食べ、9時過ぎ、出る。9時半、奈良線で京都駅を立ち、10時半前、宇治駅。しばし写真を撮り、平等院に入る。11時過ぎ、鳳翔館。12時半前、宇治駅に戻り、13時前、稲荷駅に降り、伏見稲荷大社。13時8分、本殿参拝。以後、一ノ峰を目指しカメラを構えながら登山。14時半前、下山し、奈良線で京都駅へ。14時半過ぎ、駅構内のカツカレーを食べ、土産物屋へ。16時8分、ひかり乗車。18時43分、東京着。山手線で上野駅に向かい、19時9分、上野始発の高崎線乗車。20時半、駅着。21時過ぎ、無事帰宅。

共同じゃない通信(3.5[Sat]-3.7[Mon])

明日へ向けて

書くのに時間がかかりすぎたため、なし。