bunnoichi’s diary

高専から大学編入した野郎の激ユル仙台日記(大フィクション)です

85本目の日記〜本質的な恋人関係の考察〜

「私のどこが好き??」に対する批判と回答

FRUITS ZIPPERが「わたしのどこが好き?」と問うている。それに対し、「わたしはソレに気づいた」と応えるだろう。「あれ?気づいちゃいました?」、ええ。

深夜に勢いでコレを書いた。多分、後年見返して、このセリフ含めて青臭いと思うような内容になっていると思う。この日記は、日記というよりただのブログ、備忘録。特別編ってことでおさめておこう。だいぶ粗削りなので、そこは容赦してほしい。

ここで展開する話について、批判や意見は十分に欲しい。

ありふれたクリシェ

よく「ねえ、私のどこが好き?」という会話を耳にする。冗漫な恋愛小説の中にも、アイドルが歌っていそうな甘ったるい曲中にも、ごまんといるカップルの日常会話の中にも。こと、自分に至っても、言ったり言われたりの記憶があるような、ないような。

昨年の末より、女性と交際している。包み隠さず言えば、件の質問をされたこともある。相手からもそうだし、周囲の冷やかし連中からもそうだ。自分もそれに応えようと、その人のどこが好きかを必死に言語化しようとしたときがあった。しかし、しようと思ってもうまく言葉にできなかった。それもそうなのだが、それ以上に、それを言語化すること自体、なんだか正しくないのではないかという気がずっとしていた。悲惨なことに、あるいは幸運なことに、それすらも言語化出来ず、ずっとフワフワとした状態が続いていた。

14日の夜、Kと話し込んだ。話題は恋バナで、例によって「相手のどこが好きか」みたいな話題に及んだ。このKは第三者である。せっかくなので、その旨を率直に表明してみた。

ワシ「それがわからないんだよね。だし、どこが好きかを探して言うってこと自体、なんか正くなさそうっていうか、したら終わりな気がすんだよね。」

K「えー。じゃあ何きっかけで好きになったんですか?」

ワシ「特にコレって瞬間はないけど、一緒に居て一切違和感ないんだよね。あれ?ここ?とか、コレ腹立つとか、そういうのが付き合う前も後も一切なかった。その流れで、自然と好いていった、かなぁ。」

ここから自分の中で、”どこが好きを言語化してはいけない理由”の言語化を、Kと(半ば一方的な)対話形式で展開し始めた。

その対話の結論を以下に記す。(ただし、ここでは「好き」という感情に限定し、「愛」に関しては一切この議論の対象外であることを予めことわる。)

「ここが好き」の特殊性、「なんか好き」の一般性

まず「ここが好きは分からんない。分からんけどなんか好き、という状態の方が本質的である。」という命題に対し、真正面から結論を出してみた。

  • まず、「XXのここが好き」については、「だからその人が好き」ではなく、「XXのそこが好き」でしかない。
  • 次に、「ここが好き、はわからない。だけどなんか好き」ということは「相対的にXXのすべてが好き」である。

第一の結論については、これは考えてみると当然な話である。小難しく言えば、ベン図を描けば明らかだ。平易に言えば、「今日のキミは可愛いね」「いつも可愛いだろ」というバカップルの構図がそれだ。これは言い換えれば、いつものキミは可愛くないと言っているに近しい。

「いや、そうは言っても、XXの全部が好きだけどその中でも特に⋯、ということがあるだろう」という批判があるかもしれない。確かにそれも一理ある。しかし、それもやはり「好き」か「より好き」かという評価指標を相対判断しているに過ぎず、その二項対立には必ず優劣が付けられる。結果的としてやっていることは、濃淡の違いはあったとて、第一の結論と何ら変わらない。そして何より、「XXのここが好き」ということを明確にさせることに危険性については、後段にて詳述する。

第二にの結論については少し補足をはさむ。「相対的に」という言葉については、いわゆる絵の具が混ざったバケツ水みたいなものだと思えば良い。「どこが濃いか、計測器入れない限り厳密にはっきりとは分からない。けど、たしかに、パッと見ても全体的に色はついているのはわかる。」という感じになるのか。もっとはっきりとした表現まで書き下せば、「+120の項目はないけど、全項目+100ぐらいの状態である。ということは、他の項目と比べても全部良い。平均100、偏差0。」みたいな感じだろうか。

この論に対しても「それは好きな理由を探ることから逃げている」とか「もはや好きじゃないじゃん」という指摘があるかもしれない。しかし私はむしろ、この「なんかわかんないけど好き」という曖昧さこそが恋愛関係を強固にしていると考える。これについても、後段で詳述することにしよう。

ワシ「...な気がしてるから、言語化しない=正解だと感じてたのかも。」

K「あー、なんか今めっちゃ良いこと言ってますよ。」

ワシ「いや、だよねぇ。いや、今気づいちゃったなぁ。」

ここに書いたエセ批評家のような回りくどい言い回しはしていないが、Kにこの考えを話したら相当に好意的な反応を返してくれた。

では、なぜ「ここが好き」を明確にすることが危ういのかを次項、「なんかわからんが好き」が関係性を強固にするのか、この点について次々項で述べてみる。

終わりの始まり

「ここが好き」を考えることは、関係性を破綻させる第一歩であると考えている。それについて述べてみる。

蛙化現象しちゃう人

いま、というかちょっと前、「蛙化現象」という言葉が若者世代を中心に流行した(している)。蛙化現象とは「好意対象の嫌な面を見て気持ちが冷めること」とされている。が、これはZ世代(というかネットとオールドメディアがそれに迎合してなんなら牽引した感はあるけど)が誤って用いている意味合いである。本来の蛙化現象とは「自分の好意対象からの好意が見えた時点で、相手に対する嫌悪感が生じること」である。「好きピがウチのこと好きらしい。キモいかも」という極めて独善的な現象である。

この”本来の”蛙化現象が起きる要因はいくらかあるらしいが、あまり検討はされていない。私個人としては、「好きが分かっちゃったから」が大きいと思う。

まず、人間の大きな特徴の一つに、知的好奇心を持っていることが掲げられると思う。これは何を意味するかというと「前提条件として、人間は『どうなってるんだろう?』を追求する生物である」ということだと思う。子どもは「とけいの中はどうなってるんだろう」と分解する。中学生は「あの人は私をどう思ってるんだろう」と悩み倦ねる。大学生は「自分は何をしたがっているんだろう」と進路を問う。大人は「うちの子はなぜこれをしてしまうんだろう」と教育法を考え、老人は「死後の世界はどうなってるんだろう」と仏教を学ぶ。共通しているのは、「どうなっているんだろう」ということだ。

何が言いたいかというと、人間は常に何かが分からない状態が定常状態であるという説である。ヒトがサルだった時代、木陰に動くものは敵か獲物か、この木の実をたべたらどうなるんだろうなどと、絶えず未知のことを考えていた。したがって、すべて分かった状態はこの習性に反するというか、本能的にとてつもない嫌悪感が生じるのではないかと考えている。

「好きな相手が実は私のこと好きだった」は、まさにこの分からない状態が解消された瞬間である。そして、かつ多くの人はそこに何故を見出だせない。この「何故を見出だせない」にはまた2つの理由があると思っている。

まず一つは「一つの分からないが解消した後、次の何故を生み出せない」という背景事情である。これは、良い大学にいるとあんま気付かないが、これが出来る人は世の中そんなに多くない。例えば、なんで時計は一時間を計れるか。多くの人は「電池とモーターが入ってるから」と知った後はそこまで興味を持たないだろう。この次に「そもそもなぜ電池でモーターが動くのか。電気エネルギーが回転エネルギーに変わるのか。1秒ってなんなのか。逆に、この時計で不要なものって何かあるのか」とかいう疑問を呈せる人は、実はそんなに多くない。

二つ目は、「何故を見出だせない」ではなく、より正確には「見出す前にその対象から退避してしまう」になると思う。これはどういう論理か。

好意対象の好意が見える前(相手の好きバレ前)は、こちらが攻めだと思っていた。しかし、好意が見えた好きバレ後は実は自分が攻められていた、という矛盾に陥る。だから「ヤバい、逃げなきゃ」という心理が働く。だから嫌悪を抱く。そしてこの心理は、いわば動物の本能的な危険回避の習性だ。故に、加速度的に好意対象から冷めるファクタとなる。

まとめると、好きピに蛙化する要因には、「好きピも私好き?の謎が解けたことによる興味の消失」と「攻めだと思っていたら実は攻められていた、という構図に対する本能的な緊急回避」の2つがあると思っている。前者は線形的、後者は指数的だ。

これが、私の考える蛙化現象の論理だ。

蛙化現象と好きの特定

長々と蛙化現象の話をしてきたのには理由がある。この項の前半で記した「分からないを楽しんでいる」という特性が、まさに「どこが好きかは分からないが、なんか分からんけど好き。そしてそれが楽しい。」の構造に非常に似通っているんじゃないかと思っている。

蛙化現象においては、「好きピは私のことどう思ってるんだろう」が興味対象であり、それが分かると急速に冷めていった。一方、恋愛関係において「好きピのどこが好きなんだろう」は、興味対象から予想外の接近がない分、加速度的な冷めはないものの、謎を解明してしまったくせに「次の何故」を生み出せない分、やはり興味対象への熱は冷めていく。

蛙化現象と「好きの言語化」には、このような類似性があると考えている。

「私の好きなキミなら、こんなことしないよね?」

また別の視点から、言語化することの危険性を考えてもいる。それは、ラベリングという認知による危険だ。

「XXのココが好きだ」と言語化することは、言い換えれば「もし、XXのココが私の理想から外れたら、XXのことが今より好きではなくなる」という好意基準を作っていることになる。

これは「意識しなきゃ良いじゃん」とかいう次元の話ではない。一度、相手のどこが好きかを明確に考え認識出来た時点で、脳はそれを認知してしまう。無意識のうちにその基準で相手を評価するだろうし、「忘れよう」と思えば思うほど、それは色濃く出現する。故に、一度それを言語化してしまうと、相手は関係が終わるまで「ココが好き」のココについて評価をされ続けることになる。

これの極端な例が、マッチングアプリwithの価値観チェックである。実際にやったことがないので想像の部分もあるが、利用者はアプリの誘導に従い、自身の価値観を表明していく。似た価値観を持った異性とマッチし、話してるうちに「私の基準からズレてない?じゃあいいや」という評価を下す。これは、今言ったラベリングを極めてライトに、かつ高速で行っていることになるだろう。

そして別の例で、かつ多くの人が耳にしたことのある台詞が「私の好きなXXくんはこんなことしないよね?」である。

これは極めて哀しいストーリーである。好きな人の好きなとこを探して言葉にするという行為が、結果的には好きな人を好きでなくするきっかけとなってしまっている。カップルらしい行為をしていると思ったら、実はカップルでなくなる行為をし始めていたという誤謬。カップルにとってこんなにもありがた迷惑な自傷行為はない。

だから、相手の好きなところを言語化する行為自体が、恋人関係を破綻させる第一歩、終わりの始まりだと結論付けたのである。

点か、面か

ここでは「ここが好き」よりも「なんか好き」という状態のほうが本質的であるという論について、考察を深めたい。ここで登場するのが、点か面か、という議論である。

本質は面である1.0

わかりやすく、図を使って説明しよう。まず、XくんとYさんを図1のように表す。

図1 初期状態

「XXのココが好き」という状態は、図2の状態である。

図2 点的関係

図2の関係性は、どこでお互いが接続しているかの関係性が明確な反面、関係性が不安定という欠点がある。図中では四角錐で描いているが、ヒモの場合も有り得る。ヒモはハサミで切れやすいし、引っ張り過ぎたら切れるし、たわむこともある。図では最も単純な状況を示しているが、実際の関係においては、この四角錐がそれなりの数ある(ヒモが沢山繋がっている)状態である。

特筆すべきは、一目惚れやナンパも点的関係であるということだ。相手のある1点(顔面や肉体などの性的魅力)を見つめて、「この人は子を育む能力がある」「この人の子は強い素質(後世に種を残せる素質)がありそう」と考え、欲情する。これは点的関係で、セックスフレンドなどはまさにそれだ。

図3 面的関係

一方で面の場合は図3のようになる。左図は図2と対応させるために描いたが、実際には右図の関係である。どの点で関係が接着しているか、ということははっきりしないが、お互いの全体にわたって満遍なく接続がある。ここで問題となるのは、接合強度だ。

図4 接合界面の厳密な様子

接合強度を決定づける因子は2つある。接合部の結合強度と、中空(ボイド)の量だ。「なんか好き」というフワッとした状態においても、よくよく厳密に観察すると、ここは接続出来ていないという状態、これが中空(ピンクの塗部)に相当する。一方、よくよく厳密に観察してここで繋がってるんだ、というところが結合部(オレンジ線)だ。この結合部の結合強度が中空による強度損失を大きく上回ると、面と面は接合を保つことが出来る。

そしてこの関係性は、箱を接着剤でくっつけたような状態であるから、接着剤の強度がそれなりに強い限り、簡単には断ち切れない。その意味において、本質的だと記した。

本質は面である2.0

前項では「面の場合は⋯全体にわたって満遍なく接続がある」と記した。しかし厳密には、「接続」ではなく「重なっている」と表現したい。というのも、「接続」という状態は結局、図2の四角錐が無限個存在する極限状態でしかないからだ。これでは、本質的には図1の構図と変わらない。

図5 重なっている状態

一方、「重なっている」という状態は、明確にがっちりと接続はしていないが、お互いが重なり合っているという状況だ。図5に示している。この「重なっている」という状況は、流動的な箱がたまたま重なっているのではなく、電磁場や重力場のような何かしらの場(雰囲気という表現でもいい)によって束縛されている状態だと考えている。そしてこの場の強度は、XとYが相手に対して相互に発する何らかの量に依存する。この”何らかの量”は、その人のもつ人間性から肉体的魅力に至るまで、その人のすべてによって定量化される。評価指標をあえてあげるとすると、重なっている面積(赤線で示した部分、場の面積分)になるのだろう。

ちょっと小難しくなった気がするが、すごく単純に言って、「お互いなんかいいなと思っていれば、自然とその場(雰囲気)が出来、惹き合う。」という状態だ。恋愛の初期状態など、まさにこれだろう。

以上より、こと恋愛においては、本質は面である、したがって「なんか分からんが好き」が本質的であると考えている。

対処法

では、「ココが好き」を考えてしまったり、ふとした瞬間に思ってしまった場合はどうしたらよいのか。その瞬間が終わりの始まりなのか。

対処法は2つあると思っている。

1つは、「ココが好き」を「ココ良いわ」と、受容時の態度を変えることである。結果として、言っているニュアンスは大して変わらなそうだが、「好き」と「良いわ」では、やはりちょっと違う。「好き」だと、仮に評価が下がった場合、「あれ?好きなXと違う?」となる。「良いわ」の場合では、「あれ、まあいっか」ぐらいになりそう。正直、ここは個々人の価値観が大きい。要は、受容時の態度を変えることで、ある程度は回避出来るということを言いたい。

2つは、愛という要素を導入することだ。冒頭に断ったとおり、本文中では愛について一切考慮していない。詳しくはフロムを参照してほしいが、愛は相互であり、愛には責任が伴う。一方、好きは一方向であり、責任もない。したがって、別角度で強固な関係を築ける愛という要素を関係性に組み込めば、この問題は回避出来る。

「なんか良い」程度の心地よさ

現代は、すべて可視化したがる時代である。映像表現は16Kというより高繊細な領域に達し、人間集団の行動はビッグデータ人工知能によって相当の精度まで予測され、若者の間ではMBTIという16種の機械的カテゴライジングがカジュアルなトレンドになっている時代である。自分のMBTIを知らないことはノリが悪い、という風潮さえあるほどだ。

現代を生きる自分はこの微細可視化社会から脱落しないことが義務となっているが、こと私的領域においては、もっと曖昧な世界を楽しみたいと常々思っている。そもそも、自然科学を含む公的領域については、ビッグデータの活用法から新入社員のマナーに至るまで、すべての点においてお作法・プロトコールが存在し、それらが日々更新されている。だからこそ、今いる場所の2時間後の雨予報という自然現象から多様性といった社会的価値観に至るまで「微細な可視化」が可能となっているのだと思っている。

しかし、日常生活には、法律とマナーを除き、そんなプロトコルは大して無い。なんなら、それらを規定することは「自由を奪う」として非難の対象にも成り得る。だから、世の中には色んな人が居て、その一人ひとりの中にも色んな人(分人)がいるという、我々にとっては極めて日常だが、極めて混沌とした関係性が生じている。そしてだからこそ、私的領域では、公的領域では楽しめない、その混沌さとか曖昧さを楽しむべきだ。その想いから、私は趣味である写真において、映え写真ではなくノイズ混じりの薄色彩ピンボケ写真を撮ることを好んでいるのだ。

そもそも、プライベートの何もかもが数学的に定式化されたりビッグデータで予測されちゃつまらんだろう。恋愛の一般論だってそうだ。「付き合う直前のあの時期が一番楽しい」って言説。それは、総てが可視化されず、曖昧さを保っているからこそ、ただ追い求めたくなるんだ。

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